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青柳いづみこ先生・・・本物って・・・

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ここのところ、いづみこ先生がFacebookでも文章を載せていらっしゃいます。

少し前のblogでも書きましたが、27~8年・・・およそ30年近く以前から、青柳いづみこ先生の文章が好きで、よく本を買い求めて読んでいました。

初期の頃は、音楽雑誌へ投稿された文章から、、本は数えたらちょうど10冊でした。

いづみこ先生ご本人の承諾も得ていますので、Facebookからの文章を、これからも引用しご紹介できればと思います。

本当に聴く耳のある方の文章は、素晴らしいです。

うわべではないのです。

とあるコンクールに関して・・・

長くなりますが、出来れば頑張って読んでみて下さいchick

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よこすかピアノコンクール

4月29日、第5回野島稔コンクールの本選を聴いた。

会場は京急線汐入のよこすか芸術劇場。写真は汐入から観音崎行きのバスに乗って走水神社で降りたところの海。小さな釣り舟が出ていて、周辺には新鮮な魚を食べさせる店がたくさんある。
...
野島稔さんは、中村紘子さんと同世代の国際的ピアニスト。桐朋で井口愛子先生の薫陶を受け、モスクワ音楽院で、第1回ショパン・コンクール優勝者のレフ・オボーリンに師事。1969年にヴァン・クライバーン・コンクールで第2位に入賞している。

若いころの野島さんは、どちらかというとヴィルトゥオーゾ系のピアニストというイメージが強かったが、何年か前、軽井沢八月音楽祭でベートーヴェンの後期ソナタを拝聴したときは、堅牢な技巧はそのまま、見事に熟成した音楽に感動し、楽屋にかけつけたことを思い出す。何より、会場に置かれたスタインウェイがざくざく鳴っていたのが印象的だった。そのときは、海外で活躍する日本の中堅-若手ピアニストが顔をそろえていたが、みんな野島さんに持っていかれた・・・感があった。

横須賀芸術文化財団の主催で2年に一度開催されてきたこのコンクールは、これから海外にはばたく新進ピアニストの発掘と育成を目的としている。1800人収容、5階まである大劇場で2つの予選から本選までをおこなう。曲目も、1次予選がショパンやリスト、ラフマニノフなどの練習曲、2次予選はベートーヴェンのソナタ全曲、本選は40分の自由なプログラム。実にシンプルかつ骨太の、いわゆるグランドマナーピアニスト向けのプログラムである。

2014年の本選に残った8名のうち、7名までが男性だったのも、そんなコンクールのコンセプトが反映されているのかもしれない。

ところが、蓋をあけてみると、優勝したのは紅一点の野上真梨子さんだった。この3月に桐朋音大を卒業、2010年のショパンコンクールにも出場しているから、ファイナリストの中でキャリアはダントツだ。音楽マンガ『ピアノの森』が映画化されたとき、“誉子”役のピアノも担当しているという。

リスト『スペイン狂詩曲』は手のうちにはいった演奏だった。身体の使い方がうまく、細かい音がすべてクリアに鳴りきっていて気持ちがよい。しかし、彼女が客席にため息をつかせたのは、スクリャービン『左手のためのノクターン』だろう。右手をスツールの上に置いて、左手一本でしっとりと歌いあげる。憂愁と激情を親指に託し、伸縮自在の美しいアルペッジョでふちどる。同じスクリャービンの『ソナタ第5番』も、濃淡のつけ方、間のとり方、陶酔感の演出がうまく、実に大人な演奏だった。

私が個人的に応援していたのは、同率の2位になった白瀬元さん。芸大付属高校の3年生という若さ。とても身体が大きく、手も大きく、万事に余裕が感じられる。ショパンの『舟歌』ではむずかしいコーダも羽根のように軽く、ポエジーも豊かで感心した。ドビュッシー『喜びの島』も、胸のすくような演奏。楽器の音響を自在にあやつり、まっすぐつっこまずにすっとフェードアウトさせたり、かと思うと爆発させたりする。細かいテクニックも力業もそなえている。

プロコフィエフの『ソナタ第7番』も、鋭いスタッカート、切れのよいオクターヴとともに、弱音の美しさとポリフォニーの巧みな処理に魅せられた。2楽章の滔々たるメロディと、わざとぶつけられたグロテスクな響きも印象に残っている。フィナーレでは興奮したかテンポが上がりすぎてしまい、終盤になってやや鮮やかさを欠いたのが惜しまれる。

入賞はならなかったが、東京音大大学院の杉本太さんの演奏も個性的でおもしろかった。ドビュッシー『水の精』は、いかにも妖精らしく、気まぐれでコケティッシュな魅力に満ちている。ヴォードヴィルの芸人を模写した『風変わりなラヴィーヌ将軍』も、創意工夫に富んだコミカルな解釈で好感を持った。
ムソルグスキー『展覧会の絵』は、場面転換が巧みで、それぞれの情景が浮かびあがってくる。残念だったのは、「殻をつけたひなどりの踊り」などでタッチがややパンチ不足だったことと、フィナーレで、オーケストラ的なひろがり、爆発的な音響が不足していたこと。身体の使いかたをもう少し工夫する必要がありそうだ。

杉本さんは演奏後に3回おじぎして客席の笑いを誘っていた。パフォーマンスなのだから、会釈でも個性をみせるのは大事なことだろう。

熱演がむくわれなかった形になったのは、最後に演奏した小林遼さん。東京音大の3年生である。リスト『ソナタ』は非常にテンションの高い演奏で、30分の大作なのに少しも冗長さを感じさせない。構成力があり、モノローグも美しかった。しかし、フォルテではやや打鍵が粗く、楽器に無理じいさせる傾向があるのは残念。そのあとにプロコフィエフ『トッカータ』をもってきたのはトライアスロン・レースのよう。だんだん音がやせてくるし、休みなく上下動をつづける前腕が心配になった。

8人のファイナリストには大学2年生が3人いた。1994年生まれ、早生まれなら95年生まれ。フィギュアスケートの羽生結弦、村上佳奈子、水泳の萩野公介と瀬戸大也、野球の大谷翔平や藤浪晋太郎と同学年。スポーツでは黄金世代なのだ。

野島コンクールの3名も、それぞれ大物ぶりを垣間見せた。

白瀬さんとともに2位にはいった高倉圭吾さんは、前回のファイナリストで東京芸大の2年生。フランクの『前奏曲、コラールとフーガ』、リスト『ダンテを読みて』という重量級の作品のレヴェルをそろえて弾ききった。個人的には、もう少し多彩な音色が欲しかったのと、さらに大きな拡がりの中で立体的につくれるとよかったと思う。

モーツァルトの『幻想曲ニ短調』とシューマン『謝肉祭』を組み合わせた山西寮さんは、桐朋の2年生。『謝肉祭』のキャラクターの弾きわけには不満もあったが、身体能力に優れ、「パガニーニ」など軽々と弾いている。教え込まれたというよりは、こう弾きたいんだという気持ちが伝わってくるきて、こちらも楽しくなる。ワルツのリズムはもう少し研究する必要があるけれど。

シューベルトの『ソナタ変ロ長調』を弾いた西原瑠一さんも桐朋。若いのにどうしてこのソナタなんだろうと不思議だったが、けれん味のないピアノで、息の長い音楽を細工せずに悠々と弾いていくさまはたのもしかった。フィナーレなどでもう少し細かい音が立つと活き活きした演奏になるだろう。

94年組の10年上、高校生の白瀬さんとはひとまわりも違う相原一智さん(芸大大学院修了)は、スクリャービンの作品42のエチュードとシューマン『フモレスケ』という渋い選曲。ドイツ人にしかわからないといわれる「フモール」は、英語のユーモアとも米語のジョークとも違う、もっと哲学的な概念なんだそうだ。相原さんは、秘められた悩みやしみじみした喜び、突然の上機嫌など、聴かせるのがむずかしい作品を巧みにまとめていた。

熱演を聴いたあとは、どぶ板通りの横須賀海軍カレー本舗へ。イギリス水兵が食べていたカレー味のシチューを、明治41年に書かれた『海軍割烹術参考書』をもとに再現したもので、昔なつかしい味がする。東郷ビールとカレーで身体がポカポカした。
写真: よこすかピアノコンクール

4月29日、第5回野島稔コンクールの本選を聴いた。

会場は京急線汐入のよこすか芸術劇場。写真は汐入から観音崎行きのバスに乗って走水神社で降りたところの海。小さな釣り舟が出ていて、周辺には新鮮な魚を食べさせる店がたくさんある。

野島稔さんは、中村紘子さんと同世代の国際的ピアニスト。桐朋で井口愛子先生の薫陶を受け、モスクワ音楽院で、第1回ショパン・コンクール優勝者のレフ・オボーリンに師事。1969年にヴァン・クライバーン・コンクールで第2位に入賞している。

若いころの野島さんは、どちらかというとヴィルトゥオーゾ系のピアニストというイメージが強かったが、何年か前、軽井沢八月音楽祭でベートーヴェンの後期ソナタを拝聴したときは、堅牢な技巧はそのまま、見事に熟成した音楽に感動し、楽屋にかけつけたことを思い出す。何より、会場に置かれたスタインウェイがざくざく鳴っていたのが印象的だった。そのときは、海外で活躍する日本の中堅-若手ピアニストが顔をそろえていたが、みんな野島さんに持っていかれた・・・感があった。

横須賀芸術文化財団の主催で2年に一度開催されてきたこのコンクールは、これから海外にはばたく新進ピアニストの発掘と育成を目的としている。1800人収容、5階まである大劇場で2つの予選から本選までをおこなう。曲目も、1次予選がショパンやリスト、ラフマニノフなどの練習曲、2次予選はベートーヴェンのソナタ全曲、本選は40分の自由なプログラム。実にシンプルかつ骨太の、いわゆるグランドマナーピアニスト向けのプログラムである。

2014年の本選に残った8名のうち、7名までが男性だったのも、そんなコンクールのコンセプトが反映されているのかもしれない。

ところが、蓋をあけてみると、優勝したのは紅一点の野上真梨子さんだった。この3月に桐朋音大を卒業、2010年のショパンコンクールにも出場しているから、ファイナリストの中でキャリアはダントツだ。音楽マンガ『ピアノの森』が映画化されたとき、“誉子”役のピアノも担当しているという。

リスト『スペイン狂詩曲』は手のうちにはいった演奏だった。身体の使い方がうまく、細かい音がすべてクリアに鳴りきっていて気持ちがよい。しかし、彼女が客席にため息をつかせたのは、スクリャービン『左手のためのノクターン』だろう。右手をスツールの上に置いて、左手一本でしっとりと歌いあげる。憂愁と激情を親指に託し、伸縮自在の美しいアルペッジョでふちどる。同じスクリャービンの『ソナタ第5番』も、濃淡のつけ方、間のとり方、陶酔感の演出がうまく、実に大人な演奏だった。

私が個人的に応援していたのは、同率の2位になった白瀬元さん。芸大付属高校の3年生という若さ。とても身体が大きく、手も大きく、万事に余裕が感じられる。ショパンの『舟歌』ではむずかしいコーダも羽根のように軽く、ポエジーも豊かで感心した。ドビュッシー『喜びの島』も、胸のすくような演奏。楽器の音響を自在にあやつり、まっすぐつっこまずにすっとフェードアウトさせたり、かと思うと爆発させたりする。細かいテクニックも力業もそなえている。

プロコフィエフの『ソナタ第7番』も、鋭いスタッカート、切れのよいオクターヴとともに、弱音の美しさとポリフォニーの巧みな処理に魅せられた。2楽章の滔々たるメロディと、わざとぶつけられたグロテスクな響きも印象に残っている。フィナーレでは興奮したかテンポが上がりすぎてしまい、終盤になってやや鮮やかさを欠いたのが惜しまれる。

入賞はならなかったが、東京音大大学院の杉本太さんの演奏も個性的でおもしろかった。ドビュッシー『水の精』は、いかにも妖精らしく、気まぐれでコケティッシュな魅力に満ちている。ヴォードヴィルの芸人を模写した『風変わりなラヴィーヌ将軍』も、創意工夫に富んだコミカルな解釈で好感を持った。
ムソルグスキー『展覧会の絵』は、場面転換が巧みで、それぞれの情景が浮かびあがってくる。残念だったのは、「殻をつけたひなどりの踊り」などでタッチがややパンチ不足だったことと、フィナーレで、オーケストラ的なひろがり、爆発的な音響が不足していたこと。身体の使いかたをもう少し工夫する必要がありそうだ。

杉本さんは演奏後に3回おじぎして客席の笑いを誘っていた。パフォーマンスなのだから、会釈でも個性をみせるのは大事なことだろう。

熱演がむくわれなかった形になったのは、最後に演奏した小林遼さん。東京音大の3年生である。リスト『ソナタ』は非常にテンションの高い演奏で、30分の大作なのに少しも冗長さを感じさせない。構成力があり、モノローグも美しかった。しかし、フォルテではやや打鍵が粗く、楽器に無理じいさせる傾向があるのは残念。そのあとにプロコフィエフ『トッカータ』をもってきたのはトライアスロン・レースのよう。だんだん音がやせてくるし、休みなく上下動をつづける前腕が心配になった。

8人のファイナリストには大学2年生が3人いた。1994年生まれ、早生まれなら95年生まれ。フィギュアスケートの羽生結弦、村上佳奈子、水泳の萩野公介と瀬戸大也、野球の大谷翔平や藤浪晋太郎と同学年。スポーツでは黄金世代なのだ。

野島コンクールの3名も、それぞれ大物ぶりを垣間見せた。

白瀬さんとともに2位にはいった高倉圭吾さんは、前回のファイナリストで東京芸大の2年生。フランクの『前奏曲、コラールとフーガ』、リスト『ダンテを読みて』という重量級の作品のレヴェルをそろえて弾ききった。個人的には、もう少し多彩な音色が欲しかったのと、さらに大きな拡がりの中で立体的につくれるとよかったと思う。

モーツァルトの『幻想曲ニ短調』とシューマン『謝肉祭』を組み合わせた山西寮さんは、桐朋の2年生。『謝肉祭』のキャラクターの弾きわけには不満もあったが、身体能力に優れ、「パガニーニ」など軽々と弾いている。教え込まれたというよりは、こう弾きたいんだという気持ちが伝わってくるきて、こちらも楽しくなる。ワルツのリズムはもう少し研究する必要があるけれど。

シューベルトの『ソナタ変ロ長調』を弾いた西原瑠一さんも桐朋。若いのにどうしてこのソナタなんだろうと不思議だったが、けれん味のないピアノで、息の長い音楽を細工せずに悠々と弾いていくさまはたのもしかった。フィナーレなどでもう少し細かい音が立つと活き活きした演奏になるだろう。

94年組の10年上、高校生の白瀬さんとはひとまわりも違う相原一智さん(芸大大学院修了)は、スクリャービンの作品42のエチュードとシューマン『フモレスケ』という渋い選曲。ドイツ人にしかわからないといわれる「フモール」は、英語のユーモアとも米語のジョークとも違う、もっと哲学的な概念なんだそうだ。相原さんは、秘められた悩みやしみじみした喜び、突然の上機嫌など、聴かせるのがむずかしい作品を巧みにまとめていた。

熱演を聴いたあとは、どぶ板通りの横須賀海軍カレー本舗へ。イギリス水兵が食べていたカレー味のシチューを、明治41年に書かれた『海軍割烹術参考書』をもとに再現したもので、昔なつかしい味がする。東郷ビールとカレーで身体がポカポカした。
spade読者からのコメント(パリ在住のピアニストの方のようです)
コンクールの様子が生き生きと伝わって来てまるで会場で聞いたような錯覚を起こしそうなコメントで面白かったです。
spadeピアニスト・文筆家 青柳いづみこ来年はショパンコンクールの本を書くことになりました。旧共産圏でピアノ修業した人たちの手記など読むと、実に段階をふんだコンクールの受け方をしています。それで、日本は何でも民間なのでむずかしいのですが、先輩たちは凄く努力をしているという印象です。

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写真: 本物の音楽を求めて

写真はフランスでの恩師、ピエール・バルビゼ。
ヴァイオリニストのクリスチャン・フェラスとのデュオで知られ、1963年から1990年に亡くなるまで、マルセイユ音楽院の院長兼ピアノ科教授をつとめた。

先日、フランスの室内楽奏者、クリスチャン・イヴァルディの公開講座を聴講していたら、フェラス=バルビゼの話が出た。彼らはすべてのソナタを暗譜して弾いていた、と。室内楽の場合、奏者たちは譜面を見て弾くのが普通である。しかしフェラス=バルビゼはヴァイオリンもピアノも暗譜だった。

私がマルセイユ音楽院に留学する一年前、フェラス=バルビゼはシャンゼリゼ劇場でデュオ25周年を記念するリサイタルを開催し、ベートーヴェン『春』、ブラームスの3番とフランクのソナタを演奏している。しかし、翌75年にパリ音楽院の教授に迎えられたフェラスは、演奏活動から退く決意をする。このときまだ42歳だった。

13歳でパリ音楽院を卒業し、演奏活動にはいったフェラスは、そのころから家族の生活を担っていた。一般的な勉強はリセ(高等中学)止まりである。まるでサルタンバンク(サーカス芸人)の物語のようだった、とバルビゼは回想している。文学や絵画に造詣の深いバルビゼは、演奏旅行の合間にフェラスに教養をさずけた。

拙書『ピアニストが見たピアニスト』にも書いたことだが、2人はいつも一緒で、毎朝一緒に練習した。新しいソナタを譜読みするときは、メニューインやケンプなど、当時の大家たちのスタイルを真似して楽しんだという。譜読みしたソナタは演奏旅行の移動中に車の中で暗譜した。2ともお互いのパートまでおぼえたので、目的地に到着したときはすぐに弾くことができたという。

1963年1月29日にテレビ放映されたフランクのソナタは、EMIからDVDで出ている。雄大でロマンティックなフェラスのヴァイオリンを支えながら、要所要所でひきしめるバルビゼのピアノ。
しかし、バルビゼはこの年の秋にマルセイユ音楽院の院長に就任、教育に力を入れるようになる。ちょうどそのころ、フェラスもカラヤンに認められ、ベルリン・フィルとの共演が主になった。

フェラスが演奏活動に復帰するのは1982年のことである。4月にはマルセイユの教会でバルビゼとのデュオ・リサイタルも開いた。しかし、昔のようにはいかなった。フェラスはアルコール依存症になり、ヴァイオリンも売り、その年の8月に自ら命を絶った。フェラスの死とともにデュオの生命も絶たれた。

チリ生まれのバルビゼは、パリ音楽院を卒業したにもかかわらず母校が嫌いだった。パリでやっている音楽は冷たい、スノッブで深みに欠けると感じていたようだ。1973年にはパリ音楽院の教授に任命されたものの、たった1年努めただけでやめてしまった。

自分の母親はヴァイオリンを弾いた、というのがバルビゼの口癖だった。歌う旋律、躍動するリズム、有機的なハーモニー、形式ばらない構造。でも、作曲家の意図に忠実な、本物の音楽。

バルビゼのレッスンは、上からみおろして指導するのではなく、自分の解釈をおしつけるのでもなく、生きた「本物の音楽」を生徒と一緒に捜す作業だった。形だけつくって中身を入れない演奏も、逆に個人的な感情だけに頼る演奏も即座に否定された。クラス全員で、「本物の音楽」が誕生し、育まれていく過程を見守った。

あまりに本物を求めすぎると生きるのがつらくなるかもしれない。偽物が横行していることにストレスを感じるかもしれない。バルビゼは酒を飲み、大病をして医者から禁止されても飲みつづけた。喜怒哀楽が激しく、日常生活では気むずかしい人だった。1990年1月18日、68歳で睡眠中の心臓発作で亡くなった。3月に京都フランスアカデミーの講師として来日する直前のことである。

先日再会したフィリップ・カサールも子供のころバルビゼのレッスンを受けている。個人レッスンをとり、マルセイユの自宅に行っても先生はなかなか出てこない。うんざりするぐらい待ってもう子供が寝る時間になってからようやくレッスンしてくれた。忘れられないレッスンだった・・・。

高名なピアニスト、エレーヌ・グリモーは著書『野生のしらべ』でこんなことを語っている。
「なんと言ってもすばらしいのはその心の寛さだった・・・惜しみなく与え、イメージで沸きかえるひとつの詩情のなかですべてを与えた。韻律やリズムや色彩を引き合いに出しながら、ひとつの曲の鍵を提供する。物語を語り、笑い話をする。するとすべてが明白になる・・・」

バルビゼの教えは、たくさんの生徒たちの心の中で生きている。
(前半略・・・もっと詳しく読みたい方は、ここをクリックしてくださいピアニスト・文筆家 青柳いづみこ)
バルビゼのレッスンは、上からみおろして指導するのではなく、自分の解釈をおしつけるのでもなく、生きた「本物の音楽」を生徒と一緒に捜す作業だった。形だけつくって中身を入れない演奏も、逆に個人的な感情だけに頼る演奏も即座に否定された。クラス全員で、「本物の音楽」が誕生し、育まれていく過程を見守った。

あまりに本物を求めすぎると生きるのがつらくなるかもしれない。偽物が横行していることにストレスを感じるかもしれない。バルビゼは酒を飲み、大病をして医者から禁止されても飲みつづけた。喜怒哀楽が激しく、日常生活では気むずかしい人だった。1990年1月18日、68歳で睡眠中の心臓発作で亡くなった。3月に京都フランスアカデミーの講師として来日する直前のことである。

先日再会したフィリップ・カサールも子供のころバルビゼのレッスンを受けている。個人レッスンをとり、マルセイユの自宅に行っても先生はなかなか出てこない。うんざりするぐらい待ってもう子供が寝る時間になってからようやくレッスンしてくれた。忘れられないレッスンだった・・・。

高名なピアニスト、エレーヌ・グリモーは著書『野生のしらべ』でこんなことを語っている。
「なんと言ってもすばらしいのはその心の寛さだった・・・惜しみなく与え、イメージで沸きかえるひとつの詩情のなかですべてを与えた。韻律やリズムや色彩を引き合いに出しながら、ひとつの曲の鍵を提供する。物語を語り、笑い話をする。するとすべてが明白になる・・・」

バルビゼの教えは、たくさんの生徒たちの心の中で生きている。
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どーんと、たくさんの分量のある引用をさせていただきましたが、これからを担う子供たちには、是非本物を味わってほしいものです。

たとえ趣味でも。。

いいえ、趣味だからこそ。。

大人の世代がいなくなった後からも、さらに本当の幸せを感じて生きていってほしいなぁ・・って思います。

見せかけじゃない、本物。。

ただただ甘くキラキラしているだけのものではない・・・のではないでしょうか?

ではでは~~pigcafe


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